大津絵 ヒョウタンナマズ

鳥海青児の大津絵

鳥海青児という洋画家をご存知だろうか。

1902(明治35)年、神奈川県平塚生まれ、本名は正夫という。15歳の頃、小遣いで油絵具を買って絵を描き始めた。1921(大正10)年、関西大学に入学、翌年、当時流行した姓名判断に従って青児と名乗った。在学中の1924(大正13)年には第2回春陽会展に入選、三岸好太郎らと麓人社を結成。関西大学を卒業した頃、岸田劉生から冬菜の号を贈られている。
1930(同5)年、春陽会無鑑査となり、この春、渡欧してモスクワ、ドイツ、フランス、モロッコを経て、スペインに遊学し、ゴヤレンブラントらに影響を受けた。その間、海老原喜之助や野口彌太郎らと交友。帰国後は春陽会に入会し、退会するまで発表の場とした。1943(昭和18)年、独立美術協会の会員となり、1958年、《ピカドール》で、第3回現代日本美術展最優秀賞を受賞。前年には、第4回サンパウロビエンナーレ展に出品、また世界各国に取材を重ねた。1972年(同48)年、死去。これより深く鳥海の人生を紐解けば奇人の部類に入ろう。

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さて、古美術蒐集に明け暮れた画家は多い。例えば岸田劉生、京都では古美術店を訪れては「買いたい買いたい」と繰り返し、自らを「江賀海鯛」(絵が買いたい)と名乗り自嘲した。大津絵蒐集については民芸の柳宗悦、洋画家の梅原龍三郎、小絲源太郎らをはじめに多くの名が連なる。むろん彼らにとって大津絵は収集品のほんの一部である。鳥海もしかり。浮世絵、仏画などを蒐集し、表具をも手がけた。ただし鳥海の場合、長きにわたって大津絵を手掛けていたから、よほどの興味があったとみえる。

この「ヒョウタナマズ」は10年ほども前になろうか、次の茶事には国宝の「瓢鮎図」(初期水墨画を代表する画僧・如拙の作)の話をしながら客と禅問答を楽しむのも良い、などと考えながら購入したものである。しかし道具組に納得がいかず、連れを相手に一客一亭の茶事に使ったのみでなかなか出番がない。