静岡県牧之原市相良町に所要のある連れとともに、東京駅8時3分発のひかりに乗り込んだ。静岡駅から相良までは、バスで約1時間の道程である。
連れが所要を済ませる間、町の小さな本屋をのぞいた。店主は高齢ながら愛想の良い女性で、何か1冊、買って帰りたいと思わせるような笑顔が印象的である。
さて、時間を忘れて読みふけることのできる本がみつからないだろうか。『聖書が面白いほどわかる本』(鹿嶋春平太著/中経出版)を手に取る。聖書の謎を平易に解説、興味をひかれるが、今、読むには気分がのらない・・・これはどうしても買いたい本が見つからないときの補欠としておこう。
店をふた周りしてようやく選んだのは『故郷/阿Q正伝』(光文社文庫)。言わずと知れた魯迅の名作である。学生時代に読んだはずだが、内容がどうしても思い出せない。
会計を済ませ店主に海辺までの道を尋ねた。店頭に出て次の交差点辺りを指さし店主が言う。「ほら、あの金物屋さん、あの横に海岸への小路がありますよ。10分もかからないでしょう」
日傘を差し、海岸への道をのろのろと歩く。
小路(ショウジ)・・・店主は小路と言った。本の中に見ることはあっても、耳にすることは稀な言葉であり、新鮮な感じがした。客のいない時間、手にした本をひたすらに読む店主の姿が想像される。
なるほど、家々の間を抜けて続く細い1本道であった。海辺に暮らす夫人と少年が登場する小説は何であったか、夫人が庭の木陰で本を読んでいる、そこに小路を辿り男が訪ねてくるのだ・・・天女の降り立った三保の松原のような木陰があるだろうか、そこで魯迅を読もうか・・・暑さの中、次々と連想が浮かんでは消える。
相良の海岸には素朴な海の家が一軒あり、砂の上にはいくつもの小さなテントが並んでいた。そこかしこから子どもたちの歓声が聞こえてくる。
砂浜には、角が取れ丸くなった色とりどりの石や貝殻が打ち上げられていた。無心に石を拾い、捨ててはまた拾って、最期にのこったのは縞模様の入ったグレーのグラデーションが美しい玉子大の石。
本屋の魯迅と海辺のグレーの石・・・今日は1時間足らずの間に、多くの中から二つの選択をしたわけだ。
思いのほか早く所要を終えた連れと合流し、看板の案内にあった天然温泉「さがら子生れ温泉」に行ってみることにした。相良から金谷方面に向かい、タクシーで20分ほどの距離である。
半月前にゴルフで背中の筋を痛めた連れは、整体に通って大分快復し、昨日、ようやくクラブを握った。しかし、まだまだ本調子ではないらしい。源泉かけながしの相良の湯はナトリウム泉で、筋肉痛、関節痛に利くという。連れの背中には願ってもない効能であろう。
とろりとした茶褐色の湯に身をしずめ、目を閉じる。日頃の疲れが和らいでいくのを実感した。
さがら子生れ温泉 http://www.koumareonsen.jp/