五十音の縁

izaatsuyoshi2008-05-17


新緑に輝く5月、連休明けの楽しみは、遠方の友人Kに誕生日祝いを選ぶことだ。勘が冴え、喜んでもらえるだろう一品が、すぐに決まることもあれば、あれこれと迷うときもある。今年は後者の方であったが、昨日メールがあり、どうやら気に入ってもらえたようである。

Kとは、大学時代に出逢った。出席番号五十音の定石に従い着席した席が前と後ろのなれそめである。前に座っていたKの肩をたたき、初めに声をかけたのは私の方であったように記憶する。

話しはじめるや、読んでいた本や観ていた映画が重なっていることを知り、相手の言葉が信じられないとでも言うかのように、あれは読んだか、これは観たか、と嗜好の確認にいとまがなかった。美術史を学ぶことを志した仲間であったから、興味のベクトルが同じ方向を向いているのに不思議はないのだが、出席番号のみならず出身県が隣り合っていたことにも、奇妙な縁を覚えていたのかもしれない。

卒論では、Kはプレラファエルの画家ロセッティを、私は18世紀イタリアの版画家ピラネージにテーマを求めた。出逢った頃に比べ嗜好に違いが出てきたが、互いにその選択を尊重しあっていたように思う。

卒業して以降、近しい人の影響もあり、私は日本の伝統文化に強く魅かれはじめた。育った環境を含め、私の中にその礎があったに相違ないが、子どもの頃から海外小説や西洋の美術に興味を示した身であれば、この転向は少なからず自分をも驚かせた。

一方、Kは、ヨーロッパをはじめアジア、メキシコ等、世界各地を旅することに意欲的だ。誕生日に、旅行先からプレゼントが届くこともあった。国外への関心が年々薄くなっていく当方も、その報告に刺激を受けること度々である。

本が送られてくることもある。井上洋介木版画集(『ふりむけば猫』『東京百画府』)もそのひとつだった。

ある年、宇野亜喜良の小画集『コレスポンダンス』が届いた。宇野亜喜良…懐かしい名前だった。ページを繰るうちに、記憶の中でコレスポンダンスが生じた、とでも言おうか、ともに過ごした時間が、つい昨日のことのようによみがえってきた。

遠く離れながらも、互いに誕生日を祝い、齢を重ねてきた。健康に留意し、これからも長い付き合いが出来るよう願っている。