ベニスに死す

深夜、目が覚めてしまった。もう眠れまいとテレビをつけると、とある映画の冒頭の一場面が流れていた。

大学時代、趣味を同じくする友人と名画座へ通った。名匠ヴィスコンティの特集をはじめ、私たちを満足させてくれる監督たちの映画を見たものだった。懐かしさが募った。

「ベニスに死す」、この映画を初めて見たのは高校時代のことだ。ベニスで美少年タジオに出会った初老の男アッシェンバッハの愛と死、芸術をめぐる追想が、ストーリーの進行とともに挿入される。

翌日に数学のテストを控えた前夜であったが、唯美主義を振りかざす10代にはあまりにも刺激的で、不得意の数学などどうでも良くなった。マーラーの美しい旋律が頭を抜けなかった。

さて映画の中に、今だからこそ気になったシーンがあった。

町中に消毒液が散布されているのを訝ったアッシェンバッハは銀行で何のためかと問うと秘されていた情報が口にされる。中国で発症したアジアコレラはインド、北アフリカを経てイタリア南部で拡散、ここベニスでも死者がでており、近いうちにベニスは封鎖されるという。

それでもなお、アッシェンバッハはアジアコレラが蔓延する死の街を徘徊する。そしてタジオの姿を追いながら美への賛辞とともに、海辺にて死を迎える。

これまでトーマス・マンの原作にしろ、この物語の背景にあるパンデミックに関心を寄せることはなかった。コロナウイルス感染の終息を心から願う。