新緑に薄茶一服

izaatsuyoshi2012-05-13


近年、ご縁をいただいた年長のお二人を招いて、薄茶を一服差し上げることになった。それぞれご友人をお一人伴われていらっしゃる。

当日は晴天、場所は新緑も清々しい春風萬里荘「夢境庵」(茨城県笠間市)。裏千家の茶室「又隠」を手本に北大路魯山人(1883−1959)が銘木を用いて設計した4畳半本勝手の茶室だ。

午前9時より道具を運び入れる。「本懐石ではなし薄茶一服の席、一人でも出来る」とはいささか考えが甘かったようだ。動きの不自由な和服で、風炉、釜の運び入れだけで汗が噴出した。

紺地に白の絞りの小紋にしっかりとしたプラチナの帯では厚手であったな、などと少々悔いながら、箱をひとつひとつ解いては道具を確認する。

軸をかけ花を入れる、移動でいささか崩れた風炉の灰形を直し、炭、香を焚き釜をかける・・・これで席中は良し。水屋では道具を清め、茶を掃いて棗の準備・・・膳の用意・・・11時の席入りまで残すは30分。ここまでくれば動きの先が読める。

古美術を蒐集しこれに学んだ魯山人に敬意を表し、心がけた今回の道具組み。魯山人は京都に生まれ、修行時代に金沢をはじめ北陸の名家に食客として逗留し、彼の地の数寄者から多くを吸収した。故に道具は古陶、そして京都、金沢に因んだものが多くなった。

軸は橋本関雪(1883−1945)の画賛。魯山人と同年の生まれ。儒者であった父に漢学を学び、竹内栖鳳(1864-1942)の門下となり京都画壇で活躍した。一方、魯山人上賀茂神社の社家の生まれながら里子に出され独学。若き日、魯山人も栖鳳に憧れ、後年、刻印を捧げている。没後に至っては、魯山人の終の棲家北鎌倉の星岡窯は人手に渡り建物は灰燼に帰したが、銀閣寺近くの関雪の屋敷は白沙村荘として保存公開され、訪れる人も多い。後世に名を残した同い年の二人だが、対照的な人生であった。

花入れは酒豪の正客を迎え、備前の古作大徳利に色よく咲いたあやめを入れた。

客の席入りの気配に挨拶に出、続いて膳を持ち出す。八寸として向うに海のものと山のものを盛り付け、車でお越しの皆様には酒の変わりに小吸物で喉を潤していただく趣向である。

菓子は銀座の空也最中、これが喜ばれた。はじめ金沢の老舗の菓子を候補としたが、連れが試食して言うところには「このざっくりとした菓子はやめたほうがいい。薄茶には合わないよ」。そこで銀座の空也に寄り立ち買い求めたものだった。濃いタンパンのある黄瀬戸に良く映えた。

薄器は湯浅華暁(1875〜1952)の大平棗「遠山」。関雪の句の「春の山」に併せて選んだものだ。華暁は大正・昭和にかけて京都で活躍した塗師魯山人より8歳年長となる。高蒔絵の巧みさ、器内の銀蒔絵の美しさが腕のほどを感じさせる。

茶杓は細野燕台(1872−1961) 。魯山人を金沢に招き須田青華窯で絵付けを体験させ、いち早く彼の才能を見抜いてパトロンとなった人物である。後年、燕台は魯山人に招聘され鎌倉に移り住み、彼の参謀となったが、晩年になり長年の縁を切ってしまった。

さて今回の席は、正客のY氏と茶碗の話をしたのが縁。「お茶は時々点てるが作法はまったくわからない」とおっしゃるが、いくつか大事にしている茶碗をお持ちとのこと。この日は河井寛次郎(1890-1966)の茶碗をお持ちだしいただいた。当方は古唐津、了入の黒と渋い茶碗を揃え、これに九谷の名工、北山雲平(1901〜1978)の金彩茶碗を加えもてなすことにした。

道具について書き出すときりがない、会記を付すことにしよう。

会記

  • 床   
    • 軸   橋本関雪作「蕨図 先達は靄に入りぬ花の山」 
    • 花入  備前 江戸中期
    • 花   アヤメ、アシ
  • 献立(八寸として)
  • 薄茶
    • 釜  雲竜大筒釜 桃山時代
    • 風炉 唐銅面取
    • 水指 古丹波
    • 薄器 大平棗遠山 湯浅華暁作
    • 茶杓 細野燕台作「壱長」
    • 茶碗 辰砂茶碗 河井寛次郎
    • 楽 了入作
    • 唐津「よねばかり」
    • 金彩茶碗 北山雲平作 
    • 健水 曲
    • 蓋置 青竹

席中では茶の湯に精通するH先生が、Y氏とご友人を丁寧に導いてくださったようである。そしてY氏愛蔵の河井寛次郎の茶碗は堂々とした辰砂茶碗で、茶もすこぶる点てやすかった。H先生をはじめ連客の皆様も興味深く拝見されていたご様子。話は尽きなかった。茶事の醍醐味というものであろう。