熱海「起雲閣」

izaatsuyoshi2009-07-19


温泉好きの我ら、本日は久しぶりに熱海へと向かうことにした。熱海は、1200年前に箱根権現の万巻上人が海中温泉の泉脈を移し湯前神社を創建、なみなみと湧くその湯を広く開放したといわれる、歴史のある温泉地だ。

さて、昼過ぎに熱海駅に到着。まずは料理屋に入り、地の魚で軽く一杯。通された二階には、生け簀を中心にグルリとめぐらしたカウンターがあり、中では仲居二、三人が忙しそうに立ち回っている。

たまさか注文をした仲居が悪かったか、生ビール二杯の注文には笑顔で応じてくれていた女は、「鯵フライ一つ!」との声に態度が一変。「単品ですか?、時間が、ちょ、ちょっと、お待ちくださいっ!!」 と伝票抱えて、奥へと引っ込んでいった。「アンなんだ、気分悪いな〜!」っと、連れは少々御機嫌斜めである。しかし、ほどなく一階の厨房との会話が聞こえ、どうやら、我らの注文は特別に承認されたようだ。

続いて、獲れたての烏賊が食べたい、とゲソ焼きを頼むと、この仲居、伝票も取らずにうわ言のように「ええっ? それはァ、時間が…」と再び首をかしげながら、奥のほうへ走って行く。「いったい何なんだっ!」と連れは大いに憤慨している。すると、別の化粧の濃い仲居が客席側から回り込んできてこう言ったものだ。「お、御客さん、いまの時間帯は出来れば定食を…時間がかかるものは、御勘弁ください」。「なんだ、だったら最初からメニューに入れるなよなア〜」と連れもしぶしぶながら納得するしかなかった。彼に言わせると「あの汁のないカレイの煮付けのような態度と顔付きには、まったくもって辟易だ」。しかし、鯵のフライは新鮮で旨かった。

1階のレジで3000円ほどを支払い、それなりの値段に納得し、連れは、店の主人に、お勧めの日帰り温泉を尋ねた。すると主人は「あ、お宅、歩き?あそこ曲がって、横を右、日航亭って看板があるから…そこ、源泉なんですヨ」と常連でもあるかのように勧める。

言われたままに、海側へと、だらだら坂をくだる。10分ほどで、湯前神社の鳥居が見えた。この神社の隣に温泉の湧き出し口、大湯がある。この湯は、徳川家康が入浴したため「出世の湯」とも謳われている。徳川家4代の家綱時代には、御汲湯として、毎年数回、江戸まで湯を運んでいたそうだ。

その先に、目指す日航亭大湯の看板があった。館内に源泉が2本あり、1日8万リットルのお湯が自噴しているという。塩辛い、熱めの湯であった。

かつては温泉旅館であったという、建物内の休憩室は、庭側10畳2部屋、廊下側の8畳2部屋をつないだ広間で、昔ながらに、座卓がいくつか置いてある。その周りに、2、3人の地元の男連が陣取り、ビールを飲みながら湯上がりの身体を休めていた。

しっかりとした木製の手すりの階段を上がると、個室の休憩室がいくつかあった。凝った欄間などがあり、かつては賑わいを見せた旅館であったことが偲ばれる。海を望む大きなホテルに客が移ってしまったのか、連休の初日にもかかわらず、館内に人はまばらであった。

日航亭を出ると海が近いせいか、風が強い。それでも湯上りの身体を風に任せながら「起雲閣」へと歩いた。やはり熱海は温泉街の情緒がある。

「起雲閣」は、かつて熱海の三大別荘として賞賛された岩崎別荘、住友別荘とならぶ名邸であり、今は熱海市の所有となり、一般に公開されている。

大正8年、海運王とも呼ばれた内田信也によって築かれ、その後、鉄道王 根津嘉一郎が入手。茶人の根津は洋館を増築し、庭園を整備した。洋館は和洋折衷、中国趣味も取り入れた不可思議な空間であった(画像はローマ風の浴室)。昭和22年には、旅館となり、太宰治山本有三などの多くの文豪たちにも親しまれた。旅館は平成11年まで営業されていたという。一度泊まってみたかったものだ。

一時間ほどで館を出て、蕎麦屋でビールを飲む。湯に浸かったあと、歩いたせいもあるのだろうか、幾分、湯あたりをしたようだ。熱海、大湯の泉質の良さを実感した次第である。