『冬のかたみに』立原正秋

「立原」が2月いっぱいで休業すると聞いたのは、昨年師走のことである。私たちは驚き、絶句したものだ。

「私の料理は古いのかもしれない」 立原氏のつぶやきが耳に残る。果たして、素材の美味さを最大限に引き出す料理は、刺激的な味覚を求めがちな現代人には物足りないのだろうか。

休業前のひと月に「立原」を訪れたのは、彼の料理と人柄に魅せられた常連客の面々と言えよう。

空席をはさみ私の右手に座った男は、同伴の女と舌鼓を打ちながら「今度、一緒に飲みに行きましょう? ○○ さんも誘いますから!」と、盛んに立原氏を口説いている。一方、連れのひと席向うの左隣の男は、しみじみと料理を味わい、一人酒を楽しんでいる様子だ。客はそれぞれに立原氏との関係を深めながら、この店の料理を味わってきたのだろう。

私たちが恵比寿の「立原」に通い始めたのは20年近くも前のことで、以来、銀座の店に移ってなお、立原氏とは料理をはさんで古美術談義を交わす仲である。この日(2/25)も青磁唐津の盃を持ち込んだものだ。

「以前、お父さんの三島暦手の偏壷で飲ませていただいたことがありましたね、今もお持ちなの?」と連れが尋ねる。「あれは今、こちらの方へ・・・」と立原氏は左隣の男 I氏を紹介した。立原正秋の直筆原稿や消息、愛蔵した古美術品を蒐集しているという。穏やかそうな紳士である。

「いやいや、ご縁がありまして・・・」と、I氏。「失礼ですが、その青磁盃は高麗青磁、12世紀ものとお聞きしましたが?」と続ける。 「今宵、ご一緒したのも、この店があってこそ。どうぞ、おひとつ!」と連れは青磁の盃を差し出した。「いや素晴らしい象嵌ですねえ!」「見込みの蓮の花の陰刻もいいでしょう?」

I氏は続いて、少年時代に読んだ立原正秋の小説に魅入られ、一生の支えになったことなどを話し出した。そして立原文学をひとしきり語ったものだ。連れも若き日に影響を受けた一人であるのだろう。

二人の会話は、韓国の臨済禅寺、無量寺における住職、そして両班(ヤンパン)の末裔でもあった父親が大事にしていた李朝白磁の壷を壊した少年のストーリーを追い始めていた。(『冬のかたみに』新潮社1975年刊)

半年は休業するつもりだという立原氏。新しい店の開店を常連一同、首を長くして待っている。

献立

  • 口取 しんとり菜と牛蒡の白和え
  • 椀   蓮根饅頭・菜の花の白味噌仕立て
  • 向附 平目昆布〆・生海苔・葱・山葵・酢橘
  • 煮物 牛蒡・人参・大根・里芋・蓮根・椎茸・隠元・柚子
  • 凌ぎ  チラシ寿司
  • 焼物 鴨肉すり身・茄子・パプリカの竹包み蒸し
  • 進肴 海鼠とろろがけ
  • 八寸 鱈子・公魚・飯蛸煮・蕪甘酢・フキノトウ・薩摩芋・チシャトウ
  • 飯  きつねうどん
  • 水菓子 山葵のアイスクリーム
  • 菓子 あずき